3/11オートラント旅行記3 大聖堂の椅子、それが問題だ

オートラント

大聖堂が閉まっている時間帯だったので、アラゴン城から入ることになったオートラント。オートラントは、旧市街全体が城塞のように見えるが、旧市街の中に、さらにアラゴン城と呼ばれる城塞がある。

なぜ「アラゴン」なのかというと、15世紀にオスマン・トルコの襲撃後に防御のために建てられた城なのだが、その時オートラントの支配者だったのが、スペインのアラゴン家だったのだ。南イタリアの歴史は、外国勢力に支配される時代が続いていく。

オートラントのアラゴン城

こちらがアラゴン城の入り口。アラゴン城入り口前で、観光客相手に何か本を売っている男性がいた。観光客はほとんどいない季節だから。商売上がったりだろう。

オートラントのアラゴン城

アラゴン城の周りを、水をたたてていないお堀がぐるっと囲んでいる。イタリアのお堀は、水は干あがってしまっていることが多い。この後足を運ぶ予定のフェラーラのエステンセ城は、めずらしく水の入ったお堀に囲まれているらしい。

アラゴン城の内部は写真撮影禁止で、取り立てて何かあるというわけではないのだが、テラス部分から、オートラントの海を眺めることができる。

オートラントのアラゴン城

こうやって見ると、確かにオートラントの海の色は美しいかも。でも、何せ風が強くて、結構波が立っている。やっぱり海辺の町には、夏に来るべきよねー。でも、夏は人が多いのよねー。

オートラントのアラゴン城

このテラス部分には、大砲や大砲の弾が置かれていて、このアラゴン城が要塞であったことを思い出させる。お城といえばロマンチックな響きだが、イタリアで見るお城のほとんどは、堅固な作りの要塞である。ロマンチックなお城を見たければ、フランスやドイツに行かなければならないのだろう。

オートラント

オートラント市街の中には、ギリシャでよく見る雰囲気の教会があり、目を引いた。オートラントには、イタリアでは珍しいビザンチン式のサン・ピエトロ教会があるらしいが、その教会だろうか。

ビザンチン帝国で、8~9世紀に聖像破壊運動(イコノクラスム)が起こった時に、そこから逃れてきた修道僧たちが、ビザンチンの文化を携えてオートラントへやってきたらしい。オートラントがイタリア東端の町であることを示すエピソードだ。

非常に長めのよいテラスだったのだが、何せ風が強くて寒い。城内に入ると、3Dメガネが用意されていて、鍾乳洞内の遺跡発掘を紹介するVTRがあり、それをぼんやりと眺めた。いや、イタリア語で何言ってるか全然わからなかったんだけどさ、とにかく寒かったんだよ。

ぼんやりとこの3DのVTRをながめているうちに、大聖堂が開く15時になってしまった!おうっ!VTRを見すぎてしまったよ!できれば15時33分のバスで帰りたいので、大聖堂まで走った姉と私。

オートラント大聖堂

こちらがオートラント大聖堂。一面に描かれた床モザイクが有名だ。何人か観光客もいる。

内部に入って、あ・唖然!確かに、床はモザイクでビッチリ覆われているのだが、そのモザイク画の上に、ずらーっと木製の椅子が並べられているよ!

大聖堂は内部の写真撮影が一切禁止だったため、画像を載せられないのだが、ショックなのは、モザイクがきちんと見えないこと以上に、モザイク画の上に、直接椅子が置かれていること!イタリアの教会では、床に重要な美術作品が描かれている場合は、ロープが貼ってあって、踏まないようになっているものなのだが…。

確かに、ここのモザイクは、全面びっしりと描かれているので、モザイクの上に椅子を置かないようにするのは難しいのかもしれない。大聖堂は美術作品である前に、人々がお祈りをする場だからね。とは、言っても、半分に絨毯を引いて椅子を置き、半分には立ち入らないようにするとか、いろいろ工夫できそうな気もするのだが…。

このオートラント大聖堂のモザイクは、パンテレオーネという修道僧が、一人で作ったものだと言われている。パンテレオーネさんは、ビザンチンから渡ってきた修道僧だという説もあるらしい。

芸術家や、モザイク職人が作ったものではないので、ぶっちゃけ、ここのモザイクは下手である。現代アート的に崩しているというわけでもなく、素人画という感じだ。だが、下手なのだが、一生懸命作ったってことは伝わってくる好感度の高いモザイクなのだ。

写真撮影禁止だったので、心に残ったモザイクをメモしておいた。以下がそのメモ。

アレクサンダー大王かっこいい

バベルの塔が楽しそうで、はしごを上っている男の子が楽しそう。

地獄で焼かれている人も何だか楽しそう

何かを食べてる蛇をライオンが食べてる画あり。食物連鎖?

人面獣多すぎ

アトラスがいとも軽そうに地球を支えていた

ネズミを狙っている猫がかわいい

…メモだけ見ても何が何だかわからないと思うが、実際に、ここのモザイク画は、キリスト教モチーフであることは間違いないのだけど、何をどう表したものなのかはわかっていないらしい。しかしこんなに素敵なものなのに、観光客に見せてくれというよりも、大事にしてほしいよオートラント!

ちなみに、教会の左、右、それぞれの側面から、前の方に行ける通路があり、その先にもモザイクはあるので、忘れないで鑑賞するのがおすすめだ。

画像が載せられないので紹介できないが、興味のある方はこちらの本が、オートラント大聖堂のモザイクを詳しく紹介している→イタリア古寺巡礼―シチリア→ナポリ (とんぼの本)

本当はゆっくりじっくり見たかったモザイクだが、椅子があるため、ちゃんと見えるエリアは限られているので、15時33分のバスで帰ることにした。20分に大聖堂を出て、やや早歩きでオートラント駅まで戻ると、行きに教えてもらったように、電車の代行バスが駅前広場に停車していた。

バスはMaglie駅まで行くらしい。そういえば、切符はレッチェから往復で買っておいたのだが、刻印はどうすればいいのか運転手さんに聞いてみると、Maglie駅で刻印すればよいと言われた。

バスには我々以外にもう一人男性が乗っていて、運転手さんに「仲間がすぐに来るから待ってほしい」と伝え、運転手さんは少し待ってくれた。しかしこのバスは電車の代行運転なのだが、Maglie駅では、レッチェ方面へ行く電車との乗り換えがもともと2分しかないのだ。だ・大丈夫かな~?

そのへんの事情は運転手さんはわかっているらしく、しばらく待ったがお仲間さんは来なかったので、「これ以上は待てないからもう行くよ」と、発車させた。すると、後ろから、男性が猛ダッシュでバスを追いかけてきたので、止めて乗せてくれた。そして、その男性は、アラゴン城前で、我々に本を売りつけてきた男性であった…。

オートラントからのバス

バスはオリーブ畑に挟まれた道をぐんぐんと走っていく。思わずバス移動になった形だが、こういうオリーブ街道を走れたのは楽しかった。オリーブオイルも美味しいけど、オリーブ畑も素敵なのだ。私の地中海好きの根っこは、オリーブ好きにあるのではないかとも最近思う。

5年前に、アルベロベッロからマルティーナ・フランカまでバス移動した時もそうだったが、プーリア州の道路は、ほとんど信号もなく、スイスイとあっという間に次の町に着いてしまう。ちょっと心配したMaglie駅での乗り換えだが、バスは余裕を持ってMaglie駅に到着し、ゆったりと切符の刻印もできた。

さて、Maglie駅から乗った電車は、途中のゾッリーノ(Zollino)駅で、乗り換えが必要なハズである。だが、行きは、必要だったハズの乗り換えが、必要なかった。スド・エスト線は行きあたりばったりなのだ。

電車はゾッリーノ(Zollino)駅に到着すると、長いこと停車した。乗り換えるための電車はどこにもいない。私を含めて、何人かの乗客が、「レッチェ行きにはここで乗り換えが必要か?」と駅員さんに聞いたが、駅員さんの答えは「アスペッタ!(ちょい待って)」一辺倒であった。

スド・エスト線

駅員さんはずっと「アスペッタ」だし、乗り換えられそうな電車が来る気配もないし、ゾッリーノ(Zollino)駅を手持ち無沙汰に歩き回ったり、乗ってきた電車に戻ったりを繰り返す乗客たち(の中の二人が私たち)。駅にはいかにもスド・エスト線と言う感じの落書き電車があったので、姉が「スド・エスト線らしい写真が撮れる」と言って、撮影していた。

15分くらいして、我々が乗ってきた電車に、駅員のおじさんなのか地元のオヤジなのかわからない人が入ってきて、「レッチェ!カンビオ!レッチェ!カンビオ!」と怒鳴り散らした。カンビオ=乗り換えという意味なので、皆、しゅくしゅくと電車を降りた。

スド・エスト線

しばらくすると、レッチェに無事に連れて帰ってくれそうな、キレイな電車がやってきた!わーい、キレイな電車!しかし、どうして、直前になるまで、乗り換えが必要かどうかがわからないのだろうか。「一寸先は闇」を体現しているスド・エスト線。スド・エスト線は人生の縮図。

南プーリアのトゥルッリ

キレイな電車から見た車窓風景。プーリア州の南部のアドリア海沿いでも、アルベロベッロ周辺で見られるものより、簡素なトゥルッリをぽつぽつとだが見ることができる。アルベロベッロのものとだいぶ違う!と思うかもしれないが、この子たちもトゥルッリの仲間なのだ。

レッチェに着いたときには、予定より15分遅れていた。スド・エスト線にとって、15分の遅れなど、想定の範囲内である。というか、何にも想定していないのがスド・エスト線である。

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