3/8ウルビーノ旅行記6 ライトアップの坂もエレガンス

ウルビーノは大学の町、である。

イタリアで大学の町として、すぐ頭に思い浮かぶのは、ボローニャ、ペルージャ、サレルノあたりだろうか。大学を見てもどうってことはないのだが、大学の町と言われると、大学まで見てみたくなるのが、観光客のサガってものである。というわけで、ウルビーノ大学を目指して、とことこと町歩きをしてみた。

大学は、ドゥカーレ宮殿のある広場を、そのまま南下したところにあった。

ウルビーノ

こちらがウルビーノ大学っ!日本の大学だと、敷地内に普通に一般人が入れるイメージなのだが、さすがに、古くて小さい町の中にある大学なので、建物だけが大学、という感じなのだろうか。日本の学生が、大学の敷地内の庭でくつろぐ代わりに、ウルビーノ大学の学生さんは、この城壁内の町全体が、自分のキャンパスという感じで、広場などまで出て行って、そこで友達などとおしゃべりしているのだろう。ウルビーノの広場では、若者同士でしゃべくっている姿を多く見かけた。

ま、大学の扉を見ても、「あーこれがウルビーノ大学かー」ってそれだけなのだが、それ以上ウルビーノ大学を見るというイベントに発展性はなかったため、大学の話終わり。

大学の横に、小さな教会があったので、入ってみた。

ウルビーノ

サンタ・カテリーナ教会。聖女カテリーナに捧げられた教会である。この女性が、おそらく聖女カテリーナ。手にした棕櫚の葉は、殉教した聖人の目印だそうだ。彼女の特徴的な目印としては、右手が添えてある車輪。キリスト教迫害の時代の聖女なので、車輪に括りつけられるという拷問を受けたエピソードが有名で、そのため、彼女の目印として、よく描かれる。

ウルビーノ

中は、このように、本当に小さな教会。何てことはない、と言えば何てこともないのだけれど、最近、何でもない教会が好きになってきたなあ。ちなみに、何でもないお寺とか神社とかも好きだ。私は、何の信仰も持たない人間だけれど、信仰が文化を生み出す力って、スゴイと思う。人間の脳みそが、簡単に神様などを想像…あるいは創造…しないような構造だったら、人類史における文化・芸術って、これほどまでに花開いていなかったかもしれない。

このままこの道を真っ直ぐ行くと、城壁に突き当り、ぐるっと右に折れてみると、ドゥカーレ宮殿の裏手に出た。

ウルビーノ

後ろ側から見たドゥカーレ宮殿。後ろから見ても、何か、もこっとしていてかわいらしい建物。…建築のことがワカラナイ私は「もこっ」くらいしか言えることがないのだが、実は、建築通の人から見ると、この裏側から見たドゥカーレ宮殿の構造も、なかなか興味深いものらしい。ま、私から見ると「もこっ」としているだけだけどっ!

そのドゥカーレ宮殿の反対側は、サンツィオ劇場

ウルビーノ

…何でこんなにエジプト的なのかはわからないが、サンツィオ劇場。というか、スフィンクスを見るだけで、エジプトと決めつける私の頭の方が残念無念である。

イタリアの町中には、こんな小さな町に…と思うような、立派な劇場があることが多い。イタリアではオペラがさかんなためだろう。ちなみに、私は、クラシック音楽はまあまあ好きなのに、どうにもオペラには興味が持てなくて、イタリアで一度も観劇したことがない。

だが、現代のイタリア人若者も、オペラ離れが進んでいるらしい。日本の能や歌舞伎と似ているのかな。時代が変われば、人々の娯楽も変わって行く。オペラも能も歌舞伎も、昔は娯楽のためだったのだろうが、今は保存されるべき文化である。
ちなみに、「サンツィオ劇場」って、明らかにウルビーノ生まれのラファエロを意識したネーミングだ(サンツィオというのはラファエロの名字)。

ウルビーノ

ウルビーノの町中では、こんな風にラファエロの自画像をパロディにした看板を見かけたりして。四葉のクローバーを口にくわえて、何かちょっとスレた感のあるラファエロ。すっかりラファエロは町のアイドルである。

サンツィオ劇場の近くは、まるでボローニャを思わせるような柱廊が、続いていて雰囲気が良い。

ウルビーノ

この柱廊の端に、ドゥカーレ宮殿を設計したマルティーニという建築家が作った、らせん階段があると、地球の歩き方に書いてあった。このらせん階段、楽しみにしていたのだが、残念ながら鍵がかかっていて、通れないようになっていた。このらせん階段は、メルカターレ広場から、城壁内に上がってくるための階段らしい。

らせん階段の付近をうろうろしていると、明らかに酔っぱらった、未成年っぽい少年に「ハロー」と声をかけられ、「ウンエウロ、ペルファヴォーレ(1ユーロください)」と、絡まれた。つい「ペルケ?(え、何で?)」と、真面目に返してしまったが、どうやらからかわれていたらしく、周りで仲間が大笑いしていた。「ペルファヴォーレ」って丁寧に頼まれたのが可笑しかったし、そんなに危険な集団という感じもしなかったが、不良少年って感じのクループがたむろっている場所かもしれないので、念のため暗い時間の一人歩きにはご注意を!

さて、今日はだいぶ歩き回ったので、いったん母をB&Bに連れて帰り、姉と私はもう少しウルビーノの町を歩くことにした。

姉が母をB&Bに連れて帰っている途中で、私は大学近く、リナシメント広場に、大きめの本屋さんがあったので、入ってみた。実は今年の旅行では、ヴァザーリの「芸術家列伝」のイタリア版を買って帰ろうと目論んでいるのである(言っておくけど読めないよ。欲しいだけだよ)。大学近くの本屋さんなら、置いてありそうだなあと思ったのだ。

「Arte(芸術)」や、「Storia(歴史)」の棚を見てみたが、見つからなかったので、眼鏡をかけた女性の店主さんに思い切って聞いてみた。「ヴァザーリについての本ではなくて、ヴァザーリが書いた本はありますか?」

店主さんには「Le Vite?」と聞き返された。確か、芸術家列伝は、Le Vite…うんちゃらかんちゃら(Le Viteというのは「人生」の複数形)というイタリア語タイトルだったから、それのことなのだろう。イタリアでは略して「Le Vite」と呼ばれてるんだなあ。パソコンで検索してくれたが、なぜか英語版は店内にあるのに、イタリア語はなかった。

ついでだから、「日本に持って帰りたいのですけど、小さいサイズで発刊されていますか?」と聞いてみると、大きいサイズの本しか出ていないらしい。見つけたとしても、買って帰れるかはわからないねえ。

本屋さんのお向かいは、すぐドゥカーレ宮殿なので、夜のドゥカーレ宮殿(工事中ですけどね)や、ドゥオーモをぼんやりと見ながら、姉を待った。…そうそう、書き忘れていたが、私は、このご時世にガラケー遣いの時代遅れ野郎の上に、そのガラケーが、なぜか日本を出発する前日の夜にぶっ壊れて、通話不可状態になったのだ(メールはできる)。

いやー、ケータイが壊れることなんて、ほとんど経験したことがないのに、旅行前夜に限って、こういうことが起きるわけなのだよ(悟りきっている私)。夜じゃなければケータイショップに持って行って、代替機とか借りることができるのにさあ!結局、成田にもケータイショップがあったが、簡単なプラン変更とかしかできなかったので、壊れたケータイを、そのまま持ってきただよ。何に使ったかって?時計代わりだよ。イエイっ!

…何の話かと言うと、ケータイが壊れているせいで、「あとで電話するよ」系の待ち合わせができない、一昔前の人類に成り下がった私なので、「互いの用事が終わったら、ドゥオーモ前で待ち合わせ」という、昔懐かしの待ち合わせを姉としたのである。うん、古都で、そういう文明の利器に頼らない旅もいいよね(ウソです。タブレットとか欲しいです。そんなお金ないです。タブレットの話終わり)。

で、合流した姉と、夜のウルビーノ歩きをすることにした。まあ、あまり危険は感じない町なのだが、念のため、路地の奥深くくには入らないことにした。

ウルビーノ

静かな夜も美しい町である。

ウルビーノ

ちょっと路地に入ったところに、非常にエレガンスな幼稚園を発見。ギリシャ風の柱と、天井の木枠が美しかった。エレガンスな町のエレガンスな幼稚園である。

ウルビーノ

若者の町らしく、暗くなった時間帯でも、町の中心であるレプッブリカ広場は、人がたくさんいて賑わっている。この広場は、中心にある井戸がかわいらしい。

ウルビーノ

しかし、その素敵な井戸に、こんな意味不明な落書きが…。何コレ。よく見てみるとカワイイ気もしてこなくもない。現代アートってヤツにしておこう。

ウルビーノ

広場の時計は、なーんと合っている!イタリアの街路って時計が多いのだが、その時計の時間が合っている可能性は、ここまでの私の感覚だと4割を下回っているので、イタリアの町中で時計を見る時には注意されたし、である。こんなに合ってない時計が、いくつ町中にあっても、何の意味もないと思うのだが、逆に、数打ちゃ当たるの論法で、町中にたくさん時計を設置しているのだろうか。

ウルビーノ

さて、ラファエロ通り…ラファエロ坂と呼んだ方がよさそうな通り…を上って、B&Bに帰ろうっ!ライトに照らされて、ウルビーノの優雅な坂が、いっそうエレガンスに見える。とは言っても、実際に上るのはツライんですけどね!あのエレガンスに泳ぐ白鳥も、水面下では必死に水を掻いているのだ…(今、この場面に関係がありそうで何も関係のない一文です)。

ウルビーノ

まっすぐB&Bに帰らずに、ちょっと寄り道した路地。ラフェエロ通りの上の方、右手の方にある路地で、なかなか雰囲気のよいトンネルのような路地である。明日はサン・マリノに行く予定だけど、少し時間がありそうだったら、この路地の先の方まで行ってみたいなあ。

B&Bまで戻ると、母が夜ごはんを作って待っていてくれた。

サン・マリノ

生パスタをスープパスタにしていてくれた!右はイタリア野菜の煮込み。旅行中、まったくもって野菜不足にならなかったのは、マンマの自慢の料理の腕のおかげであった。多謝っ!

というわけで、明日はサン・マリノ行きである。イタリアにいながらにしてイタリア脱出という、何とも不思議な小さな共和国に行ってくるよーっ!サン・マリノのおかげで、ギリシャから出発した今回の旅行は、思わず3か国訪問という(文字だけ見れば)大旅行の様相を呈してきたのである(3か国のどこが大旅行だと…?)。