アテネ旅行記7 直立不動で微笑んで

さて!国立考古学博物館!最初は、まず、左手の方の、アルカイック期の部屋に入ろうっ!

アルカイック期は、我々が古代ギリシャ彫刻と言われると、すぐ頭に思い浮かべるような、均整のとれた美しい彫刻などが作られた時代より、古い時代のことである(だいたい紀元前7世紀~5世紀くらい)。

中に入ると、すぐ出迎えてくれたのが、この、有名な幾何学模様と、模様のような人物が描かれたツボ!

アテネ 国立考古学博物館

「デイピュロン・アンフォラ」とか呼ばれるツボだそうで、お墓で見つかったものなのだそうだ。古代のツボが装飾されているのを見ると、別に絵など描かなくても使えるのになーと思ってしまうのだが、こんなに力を入れて装飾されている陶器は、日常使用のためのものではなく、葬儀など、祭礼用のものなのだろう。

ちなみにこのツボは、非常に有名なもので、私も写真などで見たことがある。結構大きいし、存在感があるので、それだけでも貴重なものだと思えるのだが、模様のようではあるが、人間が描かれてることが意義深いツボで、人間が描いてある陶器としては、かなり初期のものなのだそうだ。

つまり、この陶器に絵を描いた絵師さんは、ルネサンス期に美しい人物像を描いたラファエロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ひいては現在、素敵な人物像を描いている漫画家さんや絵描きさんたちにとって、遠い遠いパイオニアに当たるわけですね!

おそらく、横たわっている人物がいることや、お墓から発見されたことからとかわかるように、ここに描かれている人物たちは、葬送を執り行っているものだと思われる。

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で、ちょっと時代が進んでくると、こういう風に、ただの模様風の人物像が、ちょっとずつではあるが、生きている人間に近づいてくるわけですね。こちらは、きゅっと絞られたウェストから、女性を描いていると思われるが、なかなかかわいらしい。

さて、彫刻も見てみましょうか。

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「やー!こんにちは。」という感じの、ニケ。ハイ、こちらはニケです。あのルーブル美術館の「サモトラケのニケ」と、同一の女神です。踏み出した足が目印!

…「古典期」と呼ばれる、いかにもギリシャ彫刻って感じの彫刻が作られた時代に比べると、確かにこの時代の彫刻は拙い感じがあるが、生き生きして元気でいいよね!?

それと、何となーく、中世、ロマネスク期の彫刻にも似ている気がする。だが、ロマネスク期が、アルカイック期彫刻を模倣しているってことは、なかなか考えにくい。

そして、アルカイック期の代名詞とも言える、アルカイック・スマイルと、ご対面っ!

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アルカイック・スマイルッ!

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アルカイック・スマイルぅぅぅッ!

この微妙な笑い具合がね、何とも言えない味を出してますね。アルカイック・スマイルを、言葉で正確に表現するのは難しい。微妙な笑み、不自然な笑み、などと言われるが、私の印象だと、「目は笑っていないのに、口元が笑っている顔」かなあ。

モナ・リザや、奈良の中宮寺半跏思惟像なども、アルカイック・スマイルだとよく言われる。アルカイック・スマイルの表情は、よく「神秘的」などと言われる。おそらく、人間が自然に見せる笑みではないのだろう。

人間が自然に笑っている時には、口角が上がるのと共に、目元が細くなる。つまり、アルカイック・スマイルって…作り笑い?意図的に笑おうとして、口元だけ笑顔っぽくしてみたけど、目を笑わせるのを忘れてた…みたいな?

目は自然に見開いて、口元だけ笑う…。これは、現代のアイドルとかが広告などで撮影する表情でもよく見るし、いわゆる「営業スマイル」と呼ばれる笑顔も、これに該当するだろう。その意味では、人間関係が複雑化していく世界では、もともと不自然な表情であるはずのアルカイック・スマイルも、日常的になっている気がする。

そう考えると、現代人である私が、アルカイック・スマイルの像を前にして、何だかドキッとした気分になるのは、不自然な表情をしていることへの違和感からではなく、「何かコノヒト、裏で考えてそうだな…」と、経験的に思うからなのだろうか。

その「裏がありそう」というのが、ある意味、色っぽいような、神秘性を秘めているように、見ている者に思わせるのかもしれない。

話を、アルカイック・スマイル全般から、このアルカイック期の彫像における、アルカイック・スマイルに戻そう!

アルカイック期の彫像が、微笑みを浮かべているのは、像に生命感を与えるためではないか、と一般的には言われる。ぶっちゃけ、彫像を作る技術がまだ拙くて、躍動感のある姿勢を作ることができないから、何とか顔だけでも笑わせた、という解釈である。

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アルカイック期の彫像は、こんな風に、片足だけちょこんと出した、ほぼ直立の姿勢をしたものが多い。ホラ、私は、彫刻とか、してみたこともないので、よくわからないのだが、この時代には、これ以外の姿勢の人体像を作るのは、難しかったということなのだろう。

直立の姿勢では、彫像に生命感や躍動感を与えることは難しい。それで、顔を笑わせることによって、彫像に表情をつけることで、少しでも人間らしさを出してみた、と。

その証拠に、古典期と呼ばれる後の時代に、均整の取れたプロポーションで、躍動溢れる姿勢の彫像を作れるようになると、彫像から、このアルカイック・スマイルが消えていく、というのが定説である。

でも、単純な疑問も感じる。彫像に人間性を持たせたいにしても、なぜ、笑わせなければならないのだろうか。感情のある人間らしく、というなら、像を泣かせても怒らせてもいいはずなのだ。…うん、確かに、どの表情でもよいなら、とりあえず笑わせよう、と考えるのはわかる。だけど、少しくらい、泣いたり怒ったりしている像があってもよさそうなものだけどな(あるのかな?)。

そう考えると、アルカイック・スマイルが、技術がないから仕方なく、像の顔面に張り付けたものではなく、何か他に(たとえば宗教的な)意味が合って、笑わせていたという可能性も、ないわけではないのかなーと思ったり。

アルカイック期の次にやってくるのが、古典(クラシック)期。いわゆる、ギリシャ美術の黄金時代である。年代的には、ペロポネソス戦争でペルシアに勝利した、紀元前480年から、アレクサンドロス大王の東征でヘレニズム期が始まるまでが、古典期だそうだ。

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ほらっ!こんな風に、めっちゃカッコイイ、たくましい筋肉の彫像が作られるようになるのが、古典期!ルネサンス時代の芸術家たちが、美の理想とした時代である。

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こちらが、後ろ側から見た図。この彫像は、「アルテミシオンのゼウス」と呼ばれる、大変に有名なブロンズ像である。ちょうどゼウスが雷を投げようとしているシーンだそうだが、もしかしたら、三つ又の鉾を持っているポセイドンかもしれない、という説もある像である。

どうしても、ギリシャ彫刻と言うと、白い大理石像のイメージが強いが、当時はブロンズ像も多かったらしい。ブロンズ像は、溶かして、銅を再利用されてしまったため、あまり残っていないのだそうだ。

しかし、アルカイック期の像と比べると、あまりにも(人体表現の面で)立派すぎる。アルカイック期から古典期へ、階段みたいにひょいっと駆け上がったわけではない。実際に、直立不動ではない、ちょっと一ひねりしたポーズを取っているのに、顔はアルカイック・スマイル、みたいな、アルカイック期と古典期の橋渡しみたいな彫像が、(この博物館では見れなかったが)あるそうだ。

さて、このあたりから、ギリシャ神話でなじみ深い神々が、次々と登場してくるよ!

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こちらは、農耕と大地の女神デメテルと、その娘で、自身は植物神で、冥界の神ハデスの妻でもあるペルセフォネー。二人の女神に挟まれている子供は、デメテルから、地上の人々に農耕を伝えるように、と、麦の穂を手渡されている、トリプトレモスという名前の少年。

何度か書いているが、私は、ギリシャ神話の、オリンポス12神の女神の中では、デメテルが一番好きだ。麦の穂を持ち、小麦色っぽいセミロングの髪をなびかせ、裸足で大地に立っているイメージのデメテル。娘のペルセフォネーを可愛がっていることからも、何となく、大地と母性が結び付けられているようにも思う。

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髪の毛を垂らした、左側の女神がデメテル、というのが定説だが、逆の説もあるらしい。

デメテルとペルセフォネーは、二柱神と言われることもある。二人で一つの農耕神と見なされ、一緒に祀られることも多いそうだ。

ペルセフォネーは、冥界神ハデスに誘拐され、強引に妻にされてしまう。娘を溺愛しているデメテルが、このことにマジ切れして、植物を司る仕事を放棄してしまったため、大神ゼウスの調停により、ペルセフォネは一年の三分の二を母親の元で過ごし、残りの三分の一をハデスの元・冥界で過ごすことになった。

デメテルは、娘が冥界にいる間は、やる気をなくして仕事を放棄するので、その時期は世界が冬になってしまう…という、四季の起源神話である。

それにしても、この神話は面白いよなー。デメテルは大地の女神で、生命・誕生を司り、ハデスは死を司る。その属性から言って、この二人が、対立して争うのは当然のことではあるのだが、結局この二人が、ペルセフォネーという存在でつながっているのも面白い。

生命あるものには、死がある。だが、再生(冥界からまた、地上に戻るペルセフォネー)を通して、生命(デメテル)と死(ハデス)はつながっている。古代ギリシャ人の、世界や生命に対する鋭い感受性を、よく表している神話だと思う。

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こちらは、絵が描かれた陶器。古い時代の、模様のような人物像から、グッと、イラストと言えるような人物像になっている。

古代ギリシャ時代の絵画は、このように、陶器に描かれた、小規模なものしか残っていない。ギリシャ彫刻の出来の良さを考えると、壁画なども、そのレヴェルに近いものが描かれていたのではないかと思ってしまう。いやー、見てみたかったなあ。

やはり、彫刻や陶器、モザイクなど、平面でない型があるものに比べて、絵というものは、儚いものなのだ。しかし、絵は形がある分、形がなく、人から人へ伝えていくしかない「音楽」に比べると、まだしっかりとしたものだ。

まあ、保存のされやすさは差があるが、全ての芸術は儚いものだと言えるだろう。芸術はある意味、ゼイタク品である(なくても、生命体としては生きていける)。芸術が、享受され、保存され得るゼイタクな世界を、本当はありがたがるべきなのだろう。

てなわけで、国立考古学博物館は、写真撮影可だっため、紹介したい作品がまだまだたくさんあるので、何度かに分けて紹介しまっす!次回へ続く!