メテオラ旅行記2 アギア・トリアダ修道院のルクミが美味しかった件
アギア・トリアダ修道院
カランバカの鉄道駅に到着した我々。さて。優雅にチャータータクシーでメテオラ周遊の本日の午後!
次に目指すのはアギア・トリアダ修道院である。
優雅にタクシーと言っても、メテオラの断崖に建てられた修道院には、タクシーでギリギリ近づける場所まで行った後は、オノレの足で修道院まで上らなければならない。
その中でも、アギア・トリアダ修道院は、タクシーがこれ以上行けないという場所から距離がある。
ほらっ!まだまだこんなに遠くに見えるけど、ここからは歩いて行かなきゃいけない。しかし、これからあの修道院に行くのだと思うと、ワクワクする風景だ。
アギア・トリアダ修道院までの道は、車は入れないが、このように舗装された道だ。修道院の遠景を見ると遠く感じるが、修道院のふもとまでは、歩いて5~10分くらいで、かんたんにたどり着ける。
アギア・トリアダ修道院が近づくと、カランバカから歩いてくるトレッキングコースと、途中で合流する。本当は私も、メテオラは歩き回る予定だったんだけどなあ。風邪で体調が思わしくないのと、あと、天気がイマイチだったのだ。
さて。アギア・トリアダ修道院のふもとまでたどり着くのは、見た目よりも容易なのだが、問題、イヤ、楽しみはここからっ!ここから、この階段をどんどん上って行くのだ。階段は130段あるらしい。
しかし、この階段が非常にワイルドで、段を上るつらさを感じないくらい、上るのが楽しいのである。サイドには、奇岩と、その下に広がる町の絶景。そして、上には、今にも落ちてきそうな岩。画像で見ると、命がけで上りそうな階段に見えるかもしれないが、上っているときは、それほど恐くなかった。
途中では、このように、奇岩と奇岩の間に張ったケーブルが見える。物資を運ぶためのケーブルだが、今でも使われているらしい。この細いケーブルは違うかもしれないけど、修道士もこのケーブルで移動することがあるらしい。高所恐怖症の人は、メテオラでは修行ができないね。
何とか階段を上りきったときには、以外と疲れていた。そうね、体調が悪い中、130段も上ったものね。入り口に到着したが、アギア・トリアダ修道院の扉は開いているものの、誰も人がいない。レンタルのための腰巻きは無造作に置かれている。セルフで使ってくれという意味であろうか。
メテオラの修道院は全て有料なので、無料でほいほい入れるわけがない。「ハロー」とか「ヤサスー(←私が唯10個くらい覚えているギリシャ語。意味は『こんにちは』)」などと、大きな声を出して、入り口あたりをウロウロしてみたが、誰も出てこなかった。
タクシーの運転手さんを待たせてあるし、仕方が無いので、そのまま入場した。中には、いくつか礼拝堂のようなスペースがあり、ギリシャ正教っぽい、ちょっと中世画チックな壁画で飾られていた(内部撮影は禁止)。
メテオラの修道院内部には、壁画の描かれた礼拝堂があることが多いが、どこの修道院の絵も、そこそこ似ていた。一人の人が描いたのか、それとも、どこかの修道院の絵がベースになって、真似して描いたのだろうか。
礼拝堂をのぞいていると、どこからともなくスタッフが、切符を売りに来た。訪問者の少ない冬場は、監視カメラか何かでチェックして、人が入ってきたら、追いかけてきて切符を売るシステムなのだろうか。このスタッフさんは、修道士の格好はしていなかった。一般人のアルバイト?それとも修道士が修道士を休む日?(そんな日あるのかな)
このアギア・トリアダ修道院は、裏側に庭がある。
こんな感じの庭。広々として気持ちがよく、そして、非常に眺望がよい!
メテオラの3つの修道院が同時に見えるスポットもある。上から、ヴァルラーム修道院、アギオス・ニコラウス修道院、ルサヌ修道院・・・かな?方向音痴の私は、メテオラの6つの岩の上の修道院の位置関係を、どうも最後まで覚えることができなかった。体調が悪かったからだろうか。イヤ、方向音痴だからだよ。
面白いのは、奇岩に走っているラインが、全て右上から左下にかけて、斜めに入っていること。どうしてこんなに、人工的な感じの、幾何学的な見た目になっているのだろうか。…偏西風?…かわいそうな脳みその私が思いついたのは、偏西風という言葉だけであった(ちなみに、それがこのラインと何の関係があるのかは、私が知るよしもない)。
眼下には、メテオラのふもと町・カストラキと、その向こうのカランバカまで広がっている。確かに、こうやって下の世界を見おろすと、メテオラが、人間の俗世間から切り離された場所であることがわかる。
メテオラには、修道院以外の建物はなく、一般の人は住んでいない。そのため、お店もない。
観光のためには、メテオラ内にホテルやレストランなどを作れば、もっと観光客が集まってくるのだろう。しかし、メテオラは硬派だ。あくまでメテオラは、信仰の場であるという姿勢を崩さない。
とはいえ、メテオラは、思っていたほどは堅苦しい場でもなかった。スカートの丈は、よっぽどミニでなければOKだし、貸し出される腰巻きも、それほど丈が長いものではなく、形式的なものに見えた。また、いくつの修道院の前には、お土産や飲み物を売る屋台も出ていた。
いろいろな考え方があるだろうけど、私はメテオラは、やはり今のまま、観光にちょっと不便な場所でも良いのではないかと思う。私は信仰を持たないけれど、「聖地」という概念の理解くらいはできるし、これだけ科学技術が進歩した時代に、今なお宗教が生き続けている理由はあるのだと思う。
人が何か、自らの責任であれ、全くの事故であれ、不幸に襲われた時、いろいろ力は尽くしてはみても、力尽きてしまうこともあるだろう。その時、どこか逃げる場所、どんな人間でも受け入れてくれる場所があった方がよい。その人のためにも、そしておそらく、世界のためにも。
そういう場所は、世界の果て、メテオラに当てはめると、人間界からかけ離れた崖の上がふさわしい。宗教の起源や役割はいろいろ語られるけれど、こういった側面もひとつはあるのではないかと思う。この世界をうまく回していくために、人間が無意識に共同で作り上げた知恵なのではないか。
アギア・トリアダ修道院を出ようとすると、先ほど切符を持ってきた男性に声をかけられ、「どうぞ、ルクミを食べていってください」と、入り口に置いてあるルクミをすすめられた。
ルクミとは、ギリシャを代表するお菓子で、イメージとしては、甘いお餅みたいなお菓子である。甘すぎて、あまり口に合わないこともあるのだけれど、ここで頂いたルクミは、非常に美味しかった!長い階段を上ってきた後なので、お腹がすいていたのかもしれないが。
もう一つ食べたいくらいの勢いだったが、ソトヅラの良い私は、微笑んで「サンキュー」といい、ルクミに後ろ髪引かれながら、アギア・トリアダ修道院を後にした。ソトヅラを特別気にしない、悪く言えば図太い、よく言えば裏表のない姉は、「私はやっぱりルクミはそんなに好きじゃないなあ」と言い、ルクミに後ろ髪引かれなかったようだ。
さて、帰りもこの絶壁の階段を下っていく。本当に、今年のギリシャでは、上ったり下ったりばっかりしているなあ。それが人生ってものなわけだ。
タクシーが待機していた場所に戻ると、運転手さんはのんびりと待っていた。さて、本日行く修道院はもう一つだ!タクシーでまたもや優雅に向かうよっ!